書 評

エコクリティシズム研究会著

『オルタナティヴ・ヴォイスを聴く』

小澤 奈美恵
(『ヘンリー・ソロー研究論集』第38号より筆者の許可を得て転載しました)

本書は、エコクリティシズム研究会の40人の著者が執筆している研究書で、103の作品を紹介したものである。紹介作品は文学作品だけでなく、研究書、映画、音楽など多様な表現形態に及んでおり、事典的に活用できるようになっている。気になる作家を調べるのにも便利である。また、「汚染と身体」、「自然の再発見」、「自然と植民地主義」、「土地の歴史と喪失」等の章に分かれているので、テーマ別に選んで読むこともできる。コラムで紹介される研究書の解説もエコクリティシズムの動向をつかむ上で大変参考になる。これだけ膨大な作品数を一冊に編集してあるため、一人の著者ではとてもカバーすることができない様々な視点や幅広いジャンルの紹介を可能にしている。各作品につき、それぞれの著者が、「作者」と「作品概要」、「評価と研究」、「作品の引用」、「参考文献」という手順で4ページほどに整理しており、研究への手引きとなっている。これまで見落としていた作家や作品を発見したり、また、知っている作品をエコクリティシズムという観点から再発見することもできるだろう。個別の作家研究では見えなかった部分が、作家同士の対比で全体象として顕れて見えるようになるという利点もある。その意味で、本書は、研究者にとって研究のヒントやインスピレーションの宝庫であると同時に、学生への啓蒙書でもある。

しかし、より重要なのは、本書がエコクリティシズムの最先端の動向を切り拓いて見せていることである。それは、エコクリティシズムとポストコロニアリズムの交差点にあるものとも言えるだろう。とりわけ、監修者、伊藤詔子氏が担当する序章の「1.環境文学とエコクリティシズムの現在」は、本書全体を凝縮したエッセンスである。ここには、エコクリティシズム発展の経緯や重要キーワードが解説されている。序章を概略すれば、アメリカ文学におけるウィルダネスの概念は、H.D.ソローを始めとするカウンターカルチャーの流れを作り、自然保護運動の中核をなしながらも、それは、先住民や女性の視点を欠く男性中心主義の世界であった。ロレンス・ビュエル、スコット・スロヴィック、ジョニ・アダムソンなどエコクリティシズムの開拓者たちは、必然的に英米中心、ヨーロッパ系中心の文学を研究対象としがちであったが、これまで軽視されてきたマイノリティ、ジェンダー、セクシュアリティといった観点を包摂して論じるようになった。自然は、時間的、金銭的余裕のある先進国の白人が余暇として愉しみ、保護するものであったが、植民地支配の下で、劣悪な環境に生きる人々にとっての自然の喪失とその奪回、環境正義のための運動、また白人とは異なる自然観がエコクリティシズムに追加されていった。本書のタイトルにあるように、これまで抑えられてきた「オルタナティヴ・ヴォイス」が、次々と声を上げ、異なる世界観を語りだしていく。

この結果、レイチェル・カーソンの環境文学の夜明けから始めながら、土地を白人植民者に奪われていった先住民、奴隷体験を持つアフリカ系、移民として劣悪な環境に生きるチカーナ/チカーノ、アジア系の文学が紹介されると同時に、欧米の植民地主義と経済支配の下にあるカリブ・アフリカ系文学まで扱われている。このようにエスニシティの多様な視点を重視しているだけでなく、生き物の視点、農業と食についても取り上げている。伊藤氏が序章でスロヴィック/アダムソンの論文を引用して述べているように、最先端の動向として「環境批評そのものの脱アメリカ化と脱植民地化」(p.9)が起き、また、「環境正義の概念は国境を超える『場所についてのトランスナショナルな倫理』の探求」(p.9)が行なわれるようになった。本書はそのエコクリティシズムの最前線を反映している。

これだけ幅広い領域に亘る本書の、103の熱意ある作品紹介すべてにコメントすることはできないので、書評者の個人的興味・関心に従い、以下の二点について感想を述べさせていただく。

その一つは、数多くの先住民作家が、白人と異なる視点から環境問題を描き、「緑のポストコロニアリズム」(p.19)というオルタナティヴな世界観を提供していることを明らかにしている点で、それは本書の一つの功績であると思われた。ジェラルド・ヴィゼナーの広島の原爆とネヴァダの核実験を結ぶ作品やサイモン・オーティーズのウラニウム鉱山における先住民の低賃金労働と癌の蔓延を描く作品には、日本とアメリカに共通の脱領域的なテーマが見られ、3.11以降の世界を生きる我々にオルタナティヴな世界の方向を示唆しているかのようである。先住民の土地に眠るウラニウム、石油などの資源は、白人によって開発のために奪われていったが、白人側も映画『アバター』に見られるように、資源のために先住民を虐殺し自然を奪ったトラウマを忘れることはできない。また、スコット・ママディ、レスリー・マーモン・シルコーを始めとするほとんどの先住民作家の作品には、土地と文化を奪われた先住民たちが、部族の神話と伝承に立ち返ることで、大地との関係や命を取り戻すという共通テーマが見られる。先住民たちは、動植物と人間を平等に自然の一部とする価値観に誇りを持ち、人種と階級を超えたハイブリッドな連帯を築いて植民地支配を告発し、その叡智を我々に与えようとしている。それを最も代表的に表現するシルコーの大著『死者の暦』は、一読に値する作品であると思われた。

もう一つは、カリブ、アフリカ系作家の作品の中にグローバリゼーションの歪みが明るみに出され、先進国に居住する人々が知らず知らず搾取している裏の世界を開示してくれることである。伊藤氏は、「まえがき」でカリブ、アフリカ系作家のページが少ないことを断っているが、これまで軽視されてきた地域の作家を取り上げ、その環境テーマを論評していることは意義深い。カリブ系作家では、4人の作家の作品が紹介されている。特にデレック・ウォルコットの『オメロス』の紹介では、先進国の観光産業の下でいまだに利益を奪われ続けているカリブ諸国の現状を知ることができる。この本には収録されていないが、ドキュメンタリー『ジャマイカ楽園の真実』を見た記憶と重なる。

一方、アフリカ文学に関しては、我々日本人の生活に欠かすことのできないエネルギーや食物を通じて、我々が新植民地主義に加担し、遠い国を搾取している現実を思い知らされる。新植民地主義とは、単に文学批評用語ではなく、我々の日常が遠い国の人々の流した血の上に成り立っていることなのである。アフリカの作家では、特にケン・サロ=ウィワの手記に興味を持った。ナイジェリアのオゴニ族は、オゴニ地方に産出する石油を多国籍企業(シェルなど)に搾取された上、環境汚染に悩まされた。オゴニ族の知識人ケン・サロ=ウィワは反対運動に立ち上がるが、企業の利益を独占的に享受する独裁者に弾圧され、1995年に処刑されてしまう。石油資源を利用する先進国の人間、文学批評を行う側が、彼の死に責任があるだろう。一方、ドキュメンタリー映像作品として取り上げられているフーベルト・ザウパー監督の『ダーウィンの悪夢』は、タンザニアのヴィクトリア湖のナイルパーチという白身魚を輸入するヨーロッパや日本が、食を通じてアフリカを搾取していることを明るみに出す。「ダーウィンの箱庭」とも呼ばれたヴィクトリア湖は、ナイルパーチが繁殖することで、その豊かな生物多様性を失い、ナイルパーチ産業は周辺の住民を豊かにすることもなく、いっそう貧富の差を生んでいく。ナイルパーチを輸入する飛行機は、戻ってくるときには独裁者に渡る武器を積んでいる疑惑も示唆される。映画の信憑性に疑義が上がっているらしいが、それでも、グローバル経済によるアフリカ搾取の現実に変わりはない。ナイジェリアの石油、タンザニアからきた白身魚を、日本人はどこかで罪悪感もなく消費している。

以上が私の感想だが、読む人の関心が、エスニシティであれ、環境問題であれ、他の何であっても、それぞれに様々な発見、意義を見出せる啓発的な書であることは間違いない。

(音羽書房鶴見書店、
2011年、389頁、3000円)